2012年12月28日

今年最後の本焼き!

今年最後の窯は作品が少なくてもう無理かな?と思っていましたが、ナント!イッパイになりました。焚きますよ。 チョット無理して31日には窯から出します。どうしても今年中に作品を見たい人! 14時から16時の教室の時間で待っています。あくまで予定ですが。 新年互礼会は1月中に予定します。

 

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早朝散歩 一回りして帰るころにはポツポツ!雨が降り始めてきました。

2012年12月23日

2013年 今年も教室では沢山の作品が生まれました。

今年もいろいろ制作しましたよね!7月は岡山で10月には福山で開催された一風会みんなの作品展打ち上げも含めて楽しみましたよね!一年一年歳は取りますが創造できる思いは失わず、気持ちに歳を取らない様お願いします。 早かったですね一年!

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上のカレンダーは今年の12月です最終日は28日です。今年中にもう一度本焼きをと考えていましたが来年早々窯がイッパイになり次第焼きますからね。

下のカレンダーは来年の1月教室は4日より始まります。

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2012年12月18日

浜辺の皿に…!

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魚料理のお店”季酒”から注文頂いた台付き角皿2枚。穏やかな瀬戸の波打ち際の景色皿をにしました。下の写真は観賞のBIGゆずでしょうか?毎年この季節にいただいていますが正式名称は不明です。

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12月22日開催の”まちコン”に協賛しました。下の写真は陶芸体験の優待券です。まちコンに参加すると頂けます。ブライダルの記念品が作れるような出会いがあると良いですね!

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2012年12月12日

今年もあとわずか!

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今年は釉薬数は増えませんでしたが来年は明るいカラーの釉薬を増やそうと思います。投票日の結果にもあまり期待はできませんし、せめて教室では明るい釉薬で食器、インテリヤ小物などで明るいプライベートな時間を楽しんでいただきたいとおもいます。ご期待ください。

2012年12月07日

巳の器に活ける展9日が最終日です。

一部花が活け替えられていました。

 

 

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今朝も寒い!

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薄っすら雪景色の寒い一日でした。政治はまじめで安定していなければなりません。平らかで穏やかな風の吹くまるで一風会のような平和な日本に暮らしたいと思い不在投票を済ませ今日も仕事に励みます。

2012年12月05日

気のおけない仲間どうしの作品展!開催中

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障害者施設”創樹苑”の仲間達との作品展がギャラリーふくふくにて17日まで開催されています。ゲストはパンフラワーの森井さんに出品をお願いしました。

 

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風越窯のコーナーは多肉植物の植木鉢とアニマルグッツ!巳年の作品も並べています。

 

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今朝も寒い朝でした。

2012年12月02日

文化講演会{陶芸体験~お正月につかえる器を作ろう}

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福山市の広報で募集がありました講演会と体験教室、40人の募集が55人になり午前と午後に分かれて開催されました。福寿会館の大広間で

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講演は製作法から歴史、茶陶の発展そして姫谷焼の下りまで30分程度!制作は玉作りで簡単な入門制作、梅鉢に仕上げて皆さんに喜んでいただきました。仕上がりは今月中ごろですが引き取りは25日から福寿会館にて!

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そう言う事で前回の答えは福寿会館の洋館2階の窓から福山城を望む!でした。

12月の予定表です

遅くなりました。今月も楽しみましょう.

12月10日11日17日に変更ありました。下記写真は変更後の予定表です。

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ここ何処のお庭かわかりますか?

昨日から始まったコラボ展

 

072“巳”の器に活ける展は福山駅前アイネス2階特設ギャラリーにて12月1日から9日までAM10:00よりPM4:00まで開催中です。会場が広いので細くて長い”巳”だけではお花の先生も表現して頂きにくいだろう!と言う事で巳以外の作品も展示いたしました。会場での販売はしておりませんがご希望があれば三島までご一報ください。

 

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2012年12月01日

唐津への小旅行

 

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唐津城から北西15㎞にある名護屋城は石垣が現存する豊臣秀吉 文禄、慶長の役の基地であった。そもそも唐津の唐(から)とは中国の古称であり津とは港を指すわけだから秀吉の時代も古く大陸との交易を行っていたことがたやすく想像できる。福山の草戸千軒跡に眠っていた龍泉窯の青磁もこの地方では沢山発見されていると聞く、その時代、陶芸先進国の大陸から日本を目指した陶工が居ても不思議ではない。勿論 朝鮮出兵以降 西日本の焼き物は彼らの力により隆盛を極めたことは歴史が証明している がそれ以前の平和交流?の中で九州北部の陶工達の活動が気になってくる。そして更に一件、1637年鍋島藩による森林保護の目的で多くの日本人陶工が失業した。彼らはどこへ行ったのだろうか?多くは転職したのだろうが中には何らかの理由で本土をめざし備後の国辺りまで来て築窯を考えても不自然ではないはず、1622年にはすでに福山城は小高い丘の上に建っていた。 市右衛門 君はやはりこの時の…