2012年12月01日

唐津への小旅行

 

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唐津城から北西15㎞にある名護屋城は石垣が現存する豊臣秀吉 文禄、慶長の役の基地であった。そもそも唐津の唐(から)とは中国の古称であり津とは港を指すわけだから秀吉の時代も古く大陸との交易を行っていたことがたやすく想像できる。福山の草戸千軒跡に眠っていた龍泉窯の青磁もこの地方では沢山発見されていると聞く、その時代、陶芸先進国の大陸から日本を目指した陶工が居ても不思議ではない。勿論 朝鮮出兵以降 西日本の焼き物は彼らの力により隆盛を極めたことは歴史が証明している がそれ以前の平和交流?の中で九州北部の陶工達の活動が気になってくる。そして更に一件、1637年鍋島藩による森林保護の目的で多くの日本人陶工が失業した。彼らはどこへ行ったのだろうか?多くは転職したのだろうが中には何らかの理由で本土をめざし備後の国辺りまで来て築窯を考えても不自然ではないはず、1622年にはすでに福山城は小高い丘の上に建っていた。 市右衛門 君はやはりこの時の…

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